はじめに
急に「毎日が休み」という日々が訪れた。
休みとはいってもただの失業者だ。詳しくは書かないが仕事のストレスから「心の病」とやらに罹り休養するために会社を辞めた、というよくある話で、その先をどうするのかという現実はさておき、突然にして(収入と引き替えにだが)完全な自由を得ることとなった。良くも悪くもこんな機会は滅多にない。
会社を辞めるまでは「時間に不自由な人」だった。
物心ついてからずっと、旅を心の糧として隙を見つけてはあちこち出歩いていたが、仕事が忙しくなるにつれ、なかなか思うように動けなくなった。仕事の体質上仕方のないことでもあるが、まとまった休みはもとより、週末を休めるかも週末になってみるまで判らず、金曜の晩に「行けるぞ」と判断するや「今から乗れる」乗り物で飛び出し、日曜か月曜の朝に帰ってくるという、乱暴な旅行ばかりしていた。仕事の進捗状況を見ながら、休めそうな匂いがしてくるとカバンにお泊まりセットを仕込んで仕事場へ向かったものだ。
しかし、そういう隙間狙いの突発的な旅行も、楽しいのは最初の新鮮な間だけで、次第に飽きるというか虚しくなってくる。何を決めるにも移動手段が最優先だったし、何の情報も持たないままに飛び出すから現地での効率も悪い。予備知識を一切持たずに降り立ち、白紙から地図を作り上げていくのは楽しい作業だが、TVのように駅を降りてちょっと歩けば「偶然に」何かと出会うなど、滅多にない。
結局、終わってみれば型どおりの観光しか記憶にはなく「見たいものを見に行く」という根本の快楽要素を欠いた受動的な旅では、金が掛かかる割には旅への欲求は満たされなかった。ストレスを発散させるために出たつもりが、逆に悶々としたまま日常へ戻ることとなり、遂にはその悶々にやられてしまった。
「見たいものを見にいく」
実に簡単なことだが「限られた時間で旅をする」ことに必死になってすっかり忘れていた。色んなものがずれ、捻れたまま積み重なるうちに唯一の拠り所だった旅までが複雑になってしまっていたらしい。
そして、形はどうあれ、まとまった時間が手に入った。旅行三昧で暮らせるような身分ではないが、時間だけはあるのだから、一度原点に戻り「見たいものを見にいく」という、目的本意の、好奇心に忠実な旅とはどんなものだったかと考えてみることにした。それがこの企画の出発点となった。
寝台特急という、絶滅危惧種。
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トワイライトエクスプレスのパンフレット。こういうのが手っ取り早く行く気を盛り上げてくれる。 |
以前から気になっていたものがある。その名を「トワイライトエクスプレス」という。大阪から日本海沿いに北上し札幌まで行く、豪華なサービスを売り物にしているJRの寝台特急列車である。興味はあったが、そんな悠長なもので移動する余裕はどこにも転がっていなかったから無縁なものと諦めていた。
夜行列車に時間がなくて手を出せないというのもおかしな話で、時間貧乏だった頃は睡眠時間を移動に充てられると、むしろ積極的にお世話になったぐらいだが、この列車は事情が違う。
現存する列車で最も長距離を走るトワイライトエクスプレスは、正午に大阪を出発し、終点の札幌へは21時間後の翌朝9時に到着する。土曜日の朝に家を出ても着くのは日曜の朝ということだ。飛行機なら当日の午後には、新幹線を乗り継いでもその日の夕食ぐらいは札幌で楽しめる。目的を絞れば週末だけでも北海道で遊べるという時代に、この列車は片道の移動だけで一日を消費する。寝る時間すら移動に充てたいと思う人間の選択肢ではない。
また、この列車の目玉である一両に定員わずか6名という個室はかなりの人気で予約が難しいとされており、週末が絡めば難易度はさらに上がる。確保するには発売日に並んだり、或いはもっと前に旅行代理店に依頼しなければならないのだろうが、週末の予定すら確定できない人間に1ヶ月先の予約などは霞の向こうの世界である。
果たして今もそんなに難関なのかは判らないが、盆や正月でもないのに予約が難しい列車、それも寝台特急でというのは今にあっては想像し難い。「ブルートレイン」などともてはやされていた時代はとうの昔に終わり、寝台特急を取り巻く状況は果てしなく暗い、というよりむしろ瀕死に近い。
時刻表を開いてみると巻頭に新幹線や特急列車と並んで「寝台特急」というページがある。各路線のページから寝台特急だけを抜き出してダイジェストで掲載しているのだが、これのページ数が少ないのはいいとして、驚くのは空白の多さである。
例えば九州方面。かつて夜の大動脈であったこの路線は、東京からだけでも博多、長崎、鹿児島、宮崎など各方面へ向かう列車がそれぞれ運行されており、長距離列車らしく食堂車や個室などの記号も賑やかに並ぶ華のあるページだった。しかし今、そこに並ぶ列車は僅かに2本、それも1本の列車が九州に着いてから熊本行きと大分行きに分かれるという惨状である。食堂車も連結されていない。空欄の中にぽつんと1本、赤字ローカル線のページのような佇まいである。
九州方面だけの話ではない。全国的に寝台特急はここ数年で軒並み縮小されており、殆どの路線では既に消滅したか、大まかな方面へ一日一本というところまで追いつめられつつある。唯一の例外は北海道方面だが、これも新幹線が北海道まで伸びるとその先は見えない。飛行機が手軽になり、新幹線がつま先まで到達しようとしている裏で、かつて長距離移動の主役であった寝台特急は絶滅危惧の移動手段へと追いやられてしまっていたのだ。
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豪華路線のプロトタイプ「北斗星」。上野発の夜行列車がこういう路線に転向するとは誰も思わなかっただろう。 |
そうした絶滅の危機に、居住性とサービスに特化させることで「移動手段」から「旅行の目的」へと針路を変えることで生き残ろうとしている流れがある。唯一の例外と書いた北海道方面へ向かう列車がその役割を担い、好調を続けている。
大阪を拠点とするトワイライトエクスプレスの他に東京エリアからは「北斗星」や「カシオペア」といった同種の列車が運行されている。元々は1988年に青函トンネル開通時に運行を開始した北斗星が、今までの寝台とは一線を画する居住性の高い個室寝台や本格的なコースで供する食堂車を組み込んで話題を呼んだのが始まりである。「速く大量に」を至上としていた日本の鉄道に「乗ることを楽しむ」という考えが残っていたのかと驚いたものだが、当時はバブル絶頂期でもあり、国内線の飛行機にスーパーシートが登場したのもこの辺りだったから、時代が要求していたのかもしれない。
トワイライトエクスプレスはその翌年に登場。北斗星で評判の高かった個室寝台に、さらに上をゆくスイートという特別室を加え、レストラン等のサービスもより本格的なものにアップグレードした、日本版オリエントエクスプレスとして話題を呼んだ。その評判も殆どは好意的で、ネットを探せば体験記のようなものにあたる。
消滅寸前の世界に置かれながら光を放っているというのに強く惹かれる。目新しいものではないが、好調を維持し続けていられるのにも理由があるだろうし、好意的な評価が多ければ多いで本当かどうか疑ってもみたい。長らくその機会を探していたが、今がまさにその機会と手を出すことにした。もしかするとこれが最後の寝台列車になるかもしれないのだ。
チケットを手配してみる。
さて、そのトワイライトエクスプレスに乗ってみるとして、まずはチケットを確保しなければ何も始まらないのだが、時間があるとはいえ延々と席が空くのを待っているのも勿体ない。次の範囲内で無理ならば他の企画を考えることにした。
・一ヶ月も待つつもりはない。
・ただし、明日でも構わない。
・大阪発で、且つロイヤル以外は不可。
「ロイヤル」というのは客室の名称で、A・Bと分けられた内のA寝台の一人用個室を指す。これと「スイート」呼ばれる二人用の個室が「豪華」であり「予約を取りにくい」と言われているのだ。一ヶ月前の予約開始時に旅行社の端末を何台動員したとか、そんな話も聞く。
果たしてそれほどに、運を天に任せて挑戦しなければならないような世界なのか。ヒマだから窓口に並ぶとかは構わないが、どんなものかだけでも訊いておこう思い、大阪駅の窓口へと出掛けてみた。
「あ、ありますよ!ロイヤル、一室だけ」
例えば…、というつもりで来週の月曜日の札幌行きを見てもらったのだが、世の中こういうものである。確かに今でもスイート・ロイヤルから売り切れるらしく、キャンセルでも出たのだろうとのことだが、拍子抜けするほどに呆気なくチケットの確保は終了。競争率の高さを肌で味わうこともなく、一週間後にはトワイライトの人になることが決まってしまった。
今回、確保したチケットの内訳は以下の通りである。
・乗車券(大阪ー札幌):16,170円
・特急券( 〃 ): 3,150円
・寝台券(ロイヤル) :17,180円
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合 計 :36,150円
これを単純に大阪ー札幌間の移動手段として考えると、豪華云々とは言っているが他の手段と比べても決して高くはなく、宿泊のことも考えればむしろ良心的な設定とも思える。本家の、オリエンタル急行がバンコク〜シンガポール間に走らせているE&O(イースタン&オリエントエクスプレス)だと、時間は倍でサービスも本物だが、その代わり料金は一ケタ違う。
ただし、これはあくまで「素泊まり」の金額なので、これにディナーと朝食を加えると結局5万円ぐらいにはなるが、手を出す限りはフルオプションにしなければ逆に勿体ないというものだ。